


安岡正篤先生著「禅と陽明学」を読んでおりましたら、面白い記述がありました。是非皆さんにご紹介したいと思いましたので、投稿いたします。
「夫れ剣術は専ら人に勝つことを努むるにあらず、大変に臨みて生死を明らかにするの術なり。士たるもの常に此の心を養い其の術を修めずんばあるべからず。」この心を養ってその術を修めなければならない。「故に先生死の理に徹し、此の心偏曲なく、不疑不惑、才覚思慮を用ゆることなく、心気和平にして物なく潭然(潭のように静かに澄み切った姿)として常ならば、変に応ずること自在なるべし。此の心僅かに物ある時は状あり。状ある時は敵あり我あり。相対してあらそふ。かくの如きは変化の妙用自在ならず。我が心先ず死地に陥って霊明を失ふ。何ぞ快く立ちて明らかに勝負を決せん。たとえ勝ちたりとも盲勝といふものなり。剣術の本旨にあらず。」
「無物とて虚空をいふにはあらず(無物というが、内容のない空虚をいうのではない。)心もと形なく、物を蓄ふべからず。僅かに蓄ふるときは気も亦其の処に拠る。此の気僅かに拠る時は融通闊達なる事あたわず。向かふ処は過にして、向かわざる処はおよばざるなり(向かう処はすぎる、向かわない処は及ばず。)過なる時は気溢れてとどむべからず。不及なる時はうえて用をなさず。共に変に応ずべからず。(過ぎてはいけない、及ばずでもいけない。足らぬというのではいけない。)我が所謂無物といふは、不蓄不拠、敵もなく我もなく、物来るに随って応じて迹なきのみ。(何も痕跡を残さない。)この理を知って剣術を学ぶ者は道に近し。」
「何をか敵なく我なしといふ。」「我あるが故に敵あり。我なければ敵なし。敵といふはもと対峙の名なり。(両方、山と山とのそばだちのように相対峙する。)陰陽水火の類のごとし。およそ物形象あるものは必ず対するものあり。我が心に象なければ対するものなし。対するものなき時はきそうものなし。是を敵もなく我もなしといふ。」儒教ではこれを「主一無適」という。適は元来敵と同じでありまして、相手がない、相対ではない、絶対である。
「心と象と共に忘れて、凛然として無事なる時は和して一なり。敵の形をやぶるといへども知らず。知らざるにあらず。此に念なく、感のままに動くのみ。此の心飄然として無事なる時は世界は我が世界なり。是非好悪執滞無きの謂なり。(滞りということがない。純一無雑である。)皆我が心より苦楽得失の境界を為す。天地広しといえども心の外に求むべきものなし。古人曰く、眼裏塵有れば三界もせまし。心頭無事なれば一床もくつろぎなり。眼中わずかに塵沙の入る時は眼開くこと能わず。元来物なくして明らかなる所へ物入るるが故にかくの如し。此の心のたとへなり。」
「もし迷ふ時は此の心かえって敵の助けとなる。我が云ふ所此に止まる。只自反して我に求むべし。」君子は必ず自反する。自分が自分に返る。つまり自分と一になる。本当の自分になる。
「只自反して我に求むべし。(他に求めるのではなく、自分に求めるのである。)師は其事を伝へ其理をさとすのみ。其の真を得ることは我にあり。これを自得といふ。心をもって心に伝ふ。以心伝心ともいふべし。教外別伝ともいふべし。(言語、文字で伝えるのではない。その心に伝える。)教えに背くといふにあらず。(教えを問題としない、教えを捨てるというのではない。)師も伝ふること能わざるをいふなり。自得の処は皆以心伝心なり。教外別伝なり。教えといふは只己にあって自ら見る事能わざる処を指して知らしむるのみ。師よりこれを授けらるにあらず。教ゆることもやすく、聞くこともやすし。只己にある物をたしかに見つけて我が物にすること難し。」
プレジデント社 安岡正篤先生著「禅と陽明学」より抜粋

